ロストミソロジー 十三章:古き堕神

「すばしっこい奴」
 勘解由小路は憎々しげに呟いた。
 タイルの敷かれた地面は本来整備が行き届いていて整然とした美しさを保っていたのであろうが、今はあちこちに焼け焦げた後や、抉られた後が出来ており、最早観光スポットと呼ぶには余りにも痛ましい姿が広がっている。
 くくく、ファントムは笑った。勘解由小路は怪訝な顔をする。
「別に何か状況が変わったわけじゃないと思うんだけど、一体何がそんなにおかしいのかね」
「これが笑わずにいられるか」
 勘解由小路と弓納は目を見張った。
「ようやく喋ったわね。口が利けないかと思ってた」
「その機能まで付ける余裕がこちらになかったからな。だが、もう節制する必要もなくなった」
「ふーん、そう。で、何で笑ってるのかね」
 勘解由小路が問いかけると、ファントムはいやににやけた顔をする。
「吸血鬼というのは中々大した種族だな。いや、あれが格別優れていたのか」
「うんー? 一体何を言ってるんだか」
「鈍い娘だな。これを見たら理解するか?」
 ファントムの背中から手が生える。その手には、朱い槍。
 弓納は怪訝な顔をして勘解由小路を見た。
「晴ちゃ、ん?」
 勘解由小路は眉根を寄せて相手を睨み付ける。
「貴様、覚悟しろ」
 勘解由小路は杖で地面を叩く。
「地を這う火蜥蜴よ。其は炎色宿星の徒なり。其は汝に命ず。蛮夷戎狄、我に仇なす昧者に大禍を以て応えよ」
 ゴツゴツと地面が音を立てる。その音は次第にファントムの方へと向かっていく。ファントムはまるでこれから何が起きるのか楽しみにしているかのようにその仮面をニヤつかせながらその様子を見守っている。
「離れてて、小梅ちゃん」
 抑揚のない声だった。弓納は大人しく後ろに後退する。
「クククク」
「さっきから、ニタニタニタニタ」
「晴ちゃん」
「笑ってんじゃねえっ!」
 地面から無数の火が吹き出した。それはファントムの周りを取り囲むようにして幾重にも交差し、逃げられない炎の檻を作り出した。
「いい断末魔を聞かせなよ、エニグマ野郎」
 一谷百万墜。勘解由小路が発したそれは方術発動のキーワードだった。
 ファントムの立っている地面が溶解し、中から表れた火の塊が噴き上がる。上空を見上げると、大きな火の塊がファントム目掛けて猛進する。
 その火の光は周りを昼の世界のように染め上げ、弓納は思わず目を細める。
 なんて苛烈な炎だろう、まるでミニチュアの太陽がそこに再現されたみたいだ。弓納は十秒近くたってようやく細めていた目を開ける。
「っ!」
 思わず駆け出していた。"それ"から勘解由小路を逃すために。
「晴!」
 勘解由小路の体を突き飛ばした。よし、問題ない。
「ゔ、ごふ」
 あっ、しまった。判断ミス。
 弓納は、胸から腹にかけて焼けるような痛みが走るのを感じた。
「小梅――!」
 先端が鋭利な刃になった触手が襲いかかって来る。
 勘解由小路は駆け出して弓納を拾い上げると、「Flieg!」と叫んで、後ろへと跳んだ。
「小梅」
「大丈夫、ではないですが、なんとか動けます」
「無理しないで。自分の身を守ることだけ考えて」
「……すみません」
 弓納は俯く。何も言えない。この状態では足手まといになるのが分かっていたから。
 勘解由小路は弓納の言葉を聞くと、「何で謝るのさ」と可笑しそうに笑う。
「貴方のお陰で私は助かったんだから。むしろありがとう」
 勘解由小路は立ち上がる。
「んじゃ、あいつは私に任せて」
 そう言って勘解由小路はファントムの元へと駆け出していく。
「タイミング」
 それを見送った弓納は、手に持っていた槍を握りしめてポツリと呟いた。

「さて、どうしたもんかね」
 そう呟きながら、勘解由小路は杖を下に向けて小刻みに手首を動かす。そうすると、杖の動きに合わせて焼け焦げた地面に赤白の光を放つ魔法陣が描かれていく。
 ファントムの体のそこかしこに火が付いていた。元が真っ黒なので、傷の付き具合はよく分からないが、少なくとも致命傷を与えてはいないということは勘解由小路にも理解出来た。
「くく、人間にここまでのことが出来るとは。褒めてやるぞ、小娘。お前は素晴らしい」
「ああ、そりゃどうも。ついでにさ、大人しく倒れてくんないかな」
 魔法陣から、三メートルを超える大男が這い出してくる。勘解由小路の奥の手である巨人の式神。
「……ふむ」
 ファントムはその巨人に警戒しているのか、動きを止めたまま様子を見続ける。
「"神霊殺し"か」
「あんた、神霊か。なら好都合だ」
 巨人はその巨躯に似合わぬスピードで剣を振り下ろす。
 ファントムはそれを避けるが、剣が巻き起こした炎が体に触れてその場に転がった。
「ぐうぅ」
 転げ落ちるファントムに巨人は追撃をかける。
 ファントムは触手を放って巨人の足場を崩す。一瞬、巨人がよろめいた隙を狙ってその手に持っていた朱い槍を巨人に放つ。
 巨人はそれを左腕で防ごうとするが、槍はその腕を貫通し、喉元まで突き刺さる。
「く、秋月さんのか」
 勘解由小路は歯ぎしりする。巨人をいつまでも出し続ける余裕はない。まして、損傷部分の修復にまで魔力を回せない。
「本当に一か八かになってきたな」
 体勢を整えた巨人はその朱い槍を掴んだまま、剣を横に払う。
「力が入っていないな」
 ファントムは槍を離し、巨人の頭上を飛び越えた。
「槍は」
「取った、か?」
「え?」
 巨人が掴んでいた筈の槍は形状を変え、斧の様なものへと変形する。
 しまった、勘解由小路は叫んだ。
「その槍を取れえ!」
 巨人はその命令通り、左腕に刺さっていた槍を瞬時に取り出して放り投げた。
 ファントムはそれを腕を伸ばして掴む。
「感謝する」
「ふん、だからどうしたってのさ、偽物め」
 巨人は左腕をだらりとさせながら、再びファントムへと襲いかかった。

 数分が経過した。
「コイツ」
 またこれだ、勘解由小路は天野の時を思い出した。ファントムは逃げの姿勢を貫いてる。その狙いは明白だ。
 勘解由小路のスタミナ切れ。
 この異形は狡猾な奴だということは嫌というほど分かった。そんな奴が、自分にとって天敵であろう巨人と無闇に戦おうなどとは考えまい。
 早く決めてしまわないと、だが焦るな。勘解由小路は天野の時のことを思い出した。
 どこかで隙さえ作れれば、叩き込んでやる。
 ファントムが地面に出来た小さな窪みに足を取られ、体勢を崩した。
「よし」
 ここだ、と勘解由小路は確信した。
 なるべく最小限の動作で巨人に剣を振るわせる。
 十分だ。まともに当てさえすれば"神霊殺し"の呪いで倒せる。
「ぐうぅ」
 ファントムは獣のように唸りを上げながら槍を斧に変形させ、巨人の腕を切り落とそうとする。
 しかし、その得物は巨人の腕に届くことはなかった。それは、全く別の角度から飛んできた何の装飾もない質素な朱槍によって弾き飛ばされた。
 ファントムは思わず槍の飛んできた方向を睨めつけた。そこには、弓納が傷を抱えて蹲っていた。
「おのれ、コムスメェ」
 ファントムは恨めしげにそう呟いた。
 その黒々とした体は、眩い炎に包まれた。

「ふう」
 勘解由小路はその場に座り込んだ。役目を終えた巨人はゆらゆらと姿をおぼろげにさせていき、そして消えた。
 勘解由小路は遠くにいる弓納を見やる。
 弓納は片腕で体を押さえながらも、親指を立てているのが見えた。
 勘解由小路は彼女にピースサインで応えた。
「ほんと助かったよ、弓納さん」
 勘解由小路はゆっくりと立ち上がろうとした。
「えっ」
 勘解由小路は自分の体が地面から離れていることに気付いた。そして前方を見る。そこには、グーの手をした黒い腕が今まさに目的を遂げてその持ち主の元へ戻ろうとしていた。
「あっ、やっば」
 これ、何本か肋骨折れてるな。こんな時なのに、勘解由小路はそんなことを呑気に考えていた。
 やがて勘解由小路は背中に衝撃が走るのを感じた。どうやら、柵に突っ込んだらしい。
「ラッキー」
 そう勘解由小路は弱々しく呟いた、その意識を失った。
「晴!」
 弓納は吹き飛ばされた勘解由小路に声をかけるが、彼女から反応が返ってくることはなかった。
「元々神だった私が言うのも可笑しな話だが、天は私に味方をしたようだ」
「なんでっ」
 弓納は真っ黒に焼け焦げた筈のその場所を見て、目を見張った。
 そこには、壊れかけの人形のようにぎこちなく奇妙な動きをする怪人がなおも立っていた。触手は遠目からでも分かるようにボロボロと崩れ落ち、体中の至る所が朽ち果てているのか、小さな黒い滓のようなものが地面に落ちていく。
「くく、さあな。だが、神霊崩れだったのが幸いしたのかもしれん。確実に言えるのは、巨人の持つ神霊殺しの呪いは私には効き目が薄かったということだ」
 そう言って、ファントムはその崩れかけた仮面の口元をにやつかせる。
「さて、どうする? そのボロボロな体でまだ来るか」
 弓納は片手で体を抑えながら、横目に勘解由小路を見る。
「あるいは逃げる算段か。いいだろう、では好きな方を選ぶといい。せめて最期くらいは、自分で選択させてやろうではないか」
「くっ」
 今のままでは勝てない、弓納は撤退の方策を巡らせる。相手もボロボロだけど、あの余裕は空元気とか、そういう類のものではないだろう。
 何が何でも、勘解由小路を連れて逃げる。そう、天野はどうなのだろうか、と弓納は頭の中をよぎった。その時だった。
 空気を切り裂くような音がその空間に響いた。
 弓納はその音のした方向、ポートタワーの天辺を見上げる。
 弓納が目を凝らすと、そこには弓を持った天野と思しき男が下方を見下ろしていた。
「無事かー!」
 男は弓納を見下ろしながら大きな声で叫んだ。その声は間違いなく天野であった。遠目でぼんやりとだが、天野はジャケットを左腕の血の滲んでいる所に巻き付けているようである。
「天野さん」
「弓納、悪かったな。とんでもないものを押し付けちまって」
「貴様、そこの小娘の仲間か」
 同じくタワーの天辺を見上げていたファントムが叫んだ。
「だったらどうだってんだ。文句でもあるのか」
 天野の声が下まで響く。それを聞いたファントムは、くく、とさもおかしそうにその口を歪ませた。
「一体今更どうするつもりだ。ひょっとして、その貧弱な弓で私を射るつもりか」
「それがな。今更どうするかってわけでもないんだよな。もう既にやっちまった後だからな」
「意味の分からぬことを」
「いいや直に分かる。まあ楽しみにしてろよ、カミサマ」
「気でも狂っているのか分からんが、まあよい。天野といったな、弓納とかいうそこの小娘を連れてそそくさと帰途につくならば、見逃してやらんでもないぞ」
「ほお、そりゃ気前がいいな」
「今は気分が良い。故に施しをしてやることもやぶさかではないということだ。お前にとっても悪い話ではなかろう」
「あー、じゃあついでにもう一方女の子も」
 天野は柵に寄りかかったまま動かない勘解由小路をチラと見て言った。
「図々しい男だ。それは出来ない」
「何故?」
「シンプルな話だ。危険、だからだ。先程は危うく消し炭にされるところだった」
「そうか。まあいいや。さて、そろそろかな」
 天野は後ろを少しだけ振り返って言った。
 今何故後ろを振り向いたのか。ファントムは馬鹿馬鹿しいと思いつつもその行動の意味を模索し始めた。そしてふと、とあることに気付いた。
 あの方向には、いる。
 残してきた自分の本体が。
「ぬう!」
 小癪な真似を! ファントムはボロボロの腕を伸ばしに伸ばしてポートタワー天辺にいる天野を捕まえようとした。万が一の時のために山上に本体は残しておいたが、今はこちらに力の大部分を割いてしまった。そうでなければ、万が一だが、ここにいる小娘共に討滅されてしまう恐れがあったからだ。これだけ距離が離れていれば、力の配分はすぐには出来ない。
 どうやって気付いたのかは分からないが、この男はその本体のことを知っていて、それを何らかの方法で攻撃しようとしているのではないか。もしそうであるならば、一刻も早くこの男を仕留めねばならない。
 もっと早く、もっと早く! 時間にして一秒も経過せずにその魔手は天野に達しようとしていた。
 愚か者め、余計な動きをしなければ勝てたものを。ファントムが勝利を確信した時であった。何か鈍い感覚が伸ばした腕に奔った。
「ぐ、あああ」
 本来ならばタワー天辺で自分を見下ろしている不遜な男を握りつぶしている筈だったが、その握り潰すための手がない。
 手は、天野がいつの間にか手にしていた斧によって手首から綺麗に切り取られていた。
「悪いけどな。そんなあがきじゃ話になんねえよ」
「ふん、これしきの事で、え」
 内心地団駄を踏みながらも、ファントムはすぐに手を再生して再び天野へとその手を伸ばそうとする。 しかし、その動きが突如止まり、やがてその体をピクピクと震わせ始めた。
「いった、い、何が」
「そりゃ決まってるだろ。お前さんの本体を射抜かせてもらったんだよ、この貧相な弓矢でな」
「そんな、馬鹿な」
 そんな貧弱な弓で四、五キロは離れている山の上の一点を狙い撃ちしたというのか。
「このままでは」
 まずい。本体が消滅すれば、いずれこちらも消滅してしまうであろう。その前に、依代を手に入れなければ。
 ああ、そうだ。いるではないか、すぐ近くに。
 ファントムは弓納の方を振り向く。
「え」
 その動作の意図が理解出来ず、弓納は一瞬だけ硬直する。
 しめた。ファントムは弓納目掛けて襲いかかった。
「その体を借りるぞ、娘」
 満身創痍な状態だ、避けることも反撃することも出来まい。ファントムが弓納の眼前まで迫った時だった。
 銃声が響いた。気がつくと、ファントムは弓納に達することなく横に転がっていた。
「お、おのれ」
 苦悶の表情を浮かべながら、ファントムは憎々しげにその銃声のした方向を向いた。
「ごめんなさいね。貴方の目的が分かってきた以上、もう共闘関係は解消よ」
「貴様!」
 タワーのそばにいたのはバルバラであった。彼女はライフル銃を構え、ファントムに照準を合わせていた。
 ファントムは理解した。この女が、あの天野とかいう奴に自分の本体の居場所を教えたのだと。
「でも貴方の方から裏切ったのよ。悪く思わないでね」 
 何度も銃声が響き、その度にファントムのボロのような体に弾が突き刺さっていく。
「よくもおおおおおおおおお」
 最早当面の目標などとうに忘れてしまったかのように、我を忘れてファントムはバルバラに襲いかかろうとする。
 しかし、その体は手足の先端からボロボロと崩れまるで風に吹かれた砂のように消えていった。
「さよなら。運命に翻弄された哀れな神様」