異界手帖 六章:思い出

「しかし、思いの外買ってしまった」
 太は片手に提げた紙袋を持って、旧貴賓館前広場の川沿いのベンチに座った。
 旧市街にあるこの広場は比較的街の中心部に位置しながらも、観光客も地元の人間もさほど多くないので、静寂を求めるには格好の場所だった。太は特に何をするでもなく上を見上げた。常緑樹から漏れる木漏れ日がキラキラと輝いていて、どことなく健やかな気持ちにさせた。太はそのまま目を閉じる。
「たまにはゆっくりと過ごすのも悪くない」
 そう、ゆっくりと……
「はじめ?」
 突如、聞き覚えのある声がした。その可愛らしい声に太は思わず目を開けた。
「たまき?」
 太は目を丸くして言った。
「ええ、そうよ」
 それに答えてたまきはにっこりと笑う。
「一体、どうしてここに」
「あら、私がここにいてはいけないの?」
「ううん、そんなことはないけど」
「じゃあいてもいいのね」
 そう言ってたまきは太の隣に座る。
「ああ、そうだ。丁度よかった。そこにあるクロワッサン要らない?」
 太は横に置いていた紙袋を指し示す。
「ヤケ買いじゃないけど、一杯買っちゃて」
「いいの? 嬉しい」
 たまきは心底嬉しそうな笑みを浮かべた。
「そんなにクロワッサンが好きなの?」
「ええ、とっても」
「よかった。ほら、お食べ」
「はじめ、私は犬じゃないわよ」
「ああ、ごめんつい」
 ばつが悪そうに俯く太を見てくすりとたまきは笑う。
「可愛い」
「え、何か言った?」
「いいえ、何も」
 たまきは素知らぬふりでクロワッサンを頬張る。ちまちまと食べる様子はまるで小動物のようである。
「美味しい?」
「ええ、とっても」
「そう、よかった」
「はじめは食べないの?」
「いいよ、さっき食べたから」
「そうなのね」
 クロワッサンを食べ終えた小さな手でごちそうさまでした、と手を合わせる。
「ありがとう。本当に美味しかったわ」
 少女は無邪気に笑う。その様子を見て太もつられて笑ってしまった。
「ねえ、はじめ」
「うん、何?」
「今日は予定は空いているかしら?」
「見ての通り、今日は何もすることがないよ」
 太は苦笑する。予定が空いているということが後ろめたいことのように感じるのはどうしてだろうか?
「そうなのね。それなら、今日一日付き合ってもらえないかしら?」
「え」
「はじめと色々な所に行ってみたい。駄目?」
 たまきが下から顔を覗き込むと、太は思わず目をそらしてしまった。
「いや、いい、けど」
 目をきょろきょろさせながら太は言った。
「じゃあ決まりね。行きましょう!」
「はいはい」
 たまきの差しだした手を太は握った。

「ねえはじめ、これ似合うかしら?」
 ポートシティ記念公園に隣接している複合商業施設である「ポートランド」、その売り場の一角で、たまきは眼鏡を試着して太にみせた。太はあどけなさと知性が混在したその黒縁眼鏡の少女に思わず見とれてしまっていたことにハッとする。
「いいと思う。可愛い、うん」
「やった! はじめがそう言ってくれるなら、眼鏡をかけるのも悪しからず、ね。はじめはどう? 眼鏡はかけないの?」
「そう言われると、かけないかな」
 太は物書きをしている身としては比較的目がよかった。日常生活においては基本的に支障がなかったし、必要だと感じた時といっても遠くの席から黒板に書かれた字を判別したいと思った時くらいだ。
「字を見てる事が多いから、よくよく考えてみると目が悪くなっててもおかしくはないのだけど、何故か目はいい方なんだ」
「それは不思議ね。でも、目が悪くないからって、眼鏡をかけてはいけないという決まりもない筈よ。伊達眼鏡、というものも世の中にはありますわ」
「それはそうだね。でも伊達眼鏡だなんて皆にからかわれるよ」
「そうかしら? 似合うと思うのだけどなー」
 たまきは首を傾げながら太の顔を覗き込むと、太はその視線に耐え切れず目をそらしてしまう。
 たまきはそっと太に縁の薄い楕円形眼鏡をかけると、その見栄えに満足したらしい、「やっぱり似合ってる」と満足そうに言った。
「こら、人で遊ばない」
「ごめんなさい、つい」
 そう言いながらも、少女は上目遣いで悪戯な笑みを浮かべた。
 ポートランドをぐるりと一回りした後、二人は隣接している小さな遊園地を巡り、市のランドマークであるポートタワーの中に入ろうとした。
「たまき、ちょっと待って」
 自分の前を軽快に歩くたまきを太は制止すると、少女は後ろを振り返った。
「どうしたの? はじめ」
「ごめん、もうちょっと速度を緩めてくれないかな」
「あら、疲れたのね。ごめんなさい、どんどん連れ回しちゃって」
「ああ、気にしないで。それにしてもたまきは元気だね」
「ええ、まだまだ遊びたい盛りだもの。それにはじめといるの、とっても楽しいわ」
 たまきはにっこりと笑った。その無邪気で愛らしい笑顔に太は思わず顔を綻ばせる。
「そっか、それは嬉しい限りだ。僕の方こそ、たまきといるのは楽しいよ」
「ほんと? よかった。はじめ、私に合わせてくれてるだけなのかなと思って心配だったもの」
「はは、そんなにつまらなさそうに見えてた? 僕」
「ええ、とっても!」
「えー、それはなんと言えばいいのか……ごめんなさい」
 太が申し訳なさそうに項垂れると、たまきはクスッと笑う。
「冗談よはじめ」
「はあ、よかった。もうたまき、意地が悪いよ」
「ふふ、ごめんなさい」
 ポートタワーの展望台に着くと、たまきは弾むように窓側に向かった。目を輝かせながら下や左右に頭を動かす。
「はじめ、見て。街がおもちゃみたい」
「本当だ」
 そう言えば菅原市に来てからというもの、はじめはポートタワーに登ったことはなかったことを思い出した。元々、観光目的で菅原市に来たわけでもなく、特に表立って行きたい理由もなかったからだ。
「この街ってこうしてみると後ろに山があって、前には海があって、それでいて程よく発展していて、凄く恵まれたとこだね」
「そうね。私、この街は好きよ。はじめも好き?」
「もちろん」
 二人は展望台をぐるりと一周する。たまきが窓から見える景色をじっくりと観察することもあり、一回りするのに三十分くらいかかった。
 周りにいたのはやはり家族連れやカップルばかりだが、その中に混じってバックパックを背負った外国人や一人旅らしき男性が混じっている。
 自分達は一体どのように見られているのだろうか、ふと太は考えた。兄妹というにはどこかぎこちないし、友達というには少し歳が離れすぎている。
「まあカップルなわけないし」
「何か言った?」
「いいや、何でもない」
 太はたまきの問いに首を振った。
「ねえはじめ」
「何?」
「こうしていると、恋人みたいね」
 さっきぼそりと言ったことが聞こえていたのか、不意に少女の口から出た言葉に太は激しく動揺してしまった。
 多分、たまきは何の気なしに言っているのだろう。それは分かっていたが、それでも太は火照ってしまった顔を見られないようにそっぽを向いた。
「どうしたの? 耳が赤い」
「ば、馬鹿っ。これだから子供は……」
「はじめ、大丈夫? 具合が悪いの」
 下から心配そうに顔を覗き込むもうとするたまきを太は手で制した。
「ちょっと待って、覗き込むの禁止!」
 太のおかしな反応に、たまきは首を傾げた。