鬼姫奇譚 四章:遠い日の思い出

「あり得ないったらあり得ない」
 いつの間にか弓納と日夏の前にいた芥川は苛立たしそうな顔をして弓納を睨めつける。
「やっぱり怒らせてしまいましたか」
「当たり前よ。"図書館を燃やそうとするなんて"愚劣な行いにも程があるわ」
「そう言われると、とても辛いです。正直なところ、自分も断腸の思いでしたので。まさか焚書の真似事を自分がするなんて」
「……ここはね、本の冥界でもあるの。禁書と蔑まれて燃やされたりバラバラにされたりした本達をここに収蔵している。そしてその管理は、この図書館、私の大事な使命の一つ。貴方達の行為は、知性も理性もないケダモノの所業よ。分かっていまして?」
「ちょっと勝手なこと言わないで、図書館に閉じ込めたのはそっちでしょ。これしか方法がなかったのに、こっちが悪者だなんて、そんなの納得いかない。ソフィー、聡明な貴方なら分かるでしょ? これは、元はといえば貴方の行為が引き起こそうとした結果よ」
「う、それは、だって貴方が……」
 芥川はしどろもどろになりながら、目を泳がせる。
「さて、それはそうとしてどうしましょうか? 貴方はこうしてここに再び姿を出したわけですが……降参?」
 降参、という言葉を聞いてそれまで泳いでいた芥川の目は再び弓納を見据えた。
「甘いわね、まだよ。奥の手くらい持ってるんだから」
 眉根をしかめた芥川が手にしていた本の一ページを開くと、そこから黒々とした煙を放って何かが飛び出してきた。空中を漂っていたそれはやがて地に降り立ち、重々しい咆哮を放つ。
 咆哮を放った者を覆っていた煙が晴れる。それは異形の獣そのものであった。獅子と山羊の頭、尻尾の蛇、片方だけ不自然に生えたコウモリのような羽。あえて自然の摂理に反するかのような姿のその獣は、しかし、そこで確かに体を振動させ、喉を鳴らし、生暖かい吐息を漏らしていた。
「な、何よあれ」
 日夏が後ろに下がろうとしてつまずき、尻もちをつく。
「ねえ二人共、キマイラって知ってるかしら?」
 芥川は獣の脇腹を優しく撫でながら言った。獣は心地よさそうに静かに唸る。
「確か、ギリシャ神話に登場する伝説の獣、ではなかったですか」
「その通りよ、弓納さん。本当はもっと穏便にことを済ませたかったのだけど、こうなったら仕方がない。殺すなんて物騒なことはしないわ。でも貴方達を気絶させて、私に関する記憶を吸い取らせてもらいます」
 芥川は目を逸しながら言った。
「困ります。学生生活に支障が出てしまいそうですね」
「軽微なものよ、私との関わりなんて。でもそうしないと、貴方達は諦めてくれないから。ホントはこんな、いいえ、何でもありません」
「ソフィー、貴方」
「ああ安心して。この子に貴方達を肉体的に傷付けるようなことは出来ないから。でも」
「精神的な攻撃を加えることは出来る、とか」
「そうよ弓納さん。キマイラは最後は勇者に退治されてしまうのだけど、貴方達は英雄(ベレロフォン)にはなれるかしら」
 行きなさい! その呼びかけと共に三頭の獣は咆哮をあげ、弓納目掛けて突進していく。弓納はそれをギリギリまで引きつけてから、一気に横に跳躍して躱した。
「ふふ、いつまでそうして躱し続けるつもりかしら、弓納さん?」
 獣は体を捻ってその巨躯の向きを変え、再び弓納目掛けて覆い被さるように襲いかかった。
「弓納さん!」
「大丈夫です、問題ありません」
 弓納は身を屈めて書架が所狭しと立ち並ぶ一角に飛び込む。
「障害物を使っての鬼ごっこ、かしら。いいわよ、受けて立つわ」
 芥川は口元を微かににやけさせる。
「行きなさい、鬼から逃げる悪い子を見つけてくるのよ」
 言われたままに獣はのそのそと書架が立ち並ぶ空間へと入っていった。
 芥川と日夏のみになった広場に嫌に静寂な間が続く。三頭の魔獣は追うのに手間取っているのか、ゆっくり追い詰めることを楽しんでいるのか、時々微かに鳴き声を発していた。
 日夏が立ち上がる。
「あら、どうするつもり?」
「もちろん、貴方を抑えてあの化物を止めさせるのよ」
「ふふ、いいわよやってみなさい」
「この、甘く見ないでよ」
 日夏は震えていた足を力強く蹴リ出して芥川に向かって駆け出した。
「やあっ!」
 日夏は芥川に掴みかかろうとするが、肩に手が着こうとした目前でヒョイと躱されてしまう。日夏は勢いあまってつまずきそうになったが、すんでのところで体勢を立て直した。
「運動神経には自信はないけど、流石に今のに捕まるほどノロマではないわよ」
「おのれ、文学少女め。やるじゃない」
「諦めないつもりね。いいわ、気の済むまで来な――」
 言いかけた直後、大きな物体がまるで野球ボールのような軌道を描きながら、しかし受け止めるものなく無残にも地面に叩きつけられる。
 叩きつけられた物体は呻き声を発しながら体をピクピクさせる。今にもその3つの口から泡を吹きそうである。
「えっ!?」
 自らの放った曲者が再起不能に陥った様を見せつけられ、芥川は思わず声が裏返ってしまう。
 キマイラの飛んできた方向を目をやると、右足を突き出したままの弓納が立っていた。
「的が大きくて何より。これなら百発百中です」
 突き出した足をゆっくり戻しながら弓納は言った。
「うそ、冗談でしょ」
「さて芥川さん、もしかして奥の奥の手とか隠してたりしないですよね。そんなのあったら、流石に私も参っちゃいますが」
 芥川はその場に力なく座り込み、再び脇の獣を見やる。そして観念したかの様に俯いて目をそっと閉じた。
「ないわ。キマイラ(この子)は私のとっておきよ」